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09:04:20
24

お腹がすきました。 .. 番外編


*本編序盤の水森さん視点





 ――やっぱり、お腹に何か入れておくべきでした。



 後悔先に立たず。その言葉の真意を実感したのは、夕闇迫る時間帯に差し掛かった頃。買い物帰りの主婦の姿も見当たらない、住宅街の一角。私は空腹のあまり、ぺたんと地面に座り込んでしまった。一応成人迎えた大人がこの様だ。本当、情けない。
 普段から馬鹿みたいに食べまくる癖に、どうして今日だけご飯を抜いてしまったのか。朝食・昼食抜きのまま、1日通しで仕事なんて滅多に無いけれど、仕事柄そうなってしまう事だってある。でもそんな時でも、いやそんな時でこそ、ポケットなり鞄の中なり、常備品を忍ばせておくのが鉄壁のマイルールだった。仕事中にお腹の音が鳴るなんて事は避けたいからだ。

 それが。
 どうして今日に限って。
 何も無いんでしょうか。

 朝、空腹に負けて全部食べてしまったからです、ハイ。

 空腹くらいで、と思われるかもしれないけれど、私にとって空腹という症状はもはや死刑宣告を受けているのも同じ。餓死寸前の体は全く力が入らず、蹲る様にその場にしゃがみこんでしまった。
 やっぱり、無理やり時間を作ってご飯を食べておくべきでした。もしくはコンビニに寄って何か買ってこればよかった。しかしこの周辺にコンビニらしき建物は見当たらない。絶望でしかない。

 空腹すぎて胃が気持ち悪い。貧血にも似た不快感が体を襲う。脳に酸素がうまく回っていないのかもしれない。翳む視界の中、目の端に捉えたもの。春の息吹とともに凛と聳え立った、それはそれは立派なつくしんぼ。

 ……つくしんぼって生で食べても美味しいんですかね……。

 思考回路が危機レベル5あたりまで到達しかかった、まさにその時だった。後ろに人の気配がする。と思ったら、トン、と肩を叩かれた。何か声を掛けられた気がするけれど、つくしんぼに意識が向いていた私に、その人の声は届かない。
 もう私はダメです……お腹が……すきました……。

 心の中で呟いた、と思っていたその一言は、どうやら口に出てしまっていたらしい。しばらくして、がっと腕を引っ張られて、そのままズルズルと近くの公園まで強制連行された。あれ。今私の身に何が起こってるの。事態を把握できずにベンチに座らせられて、目の前に何かを差し出された。
 大きな手のひらの上に転がるそれは、コンビニでよく見かけるあの小さいおにぎり。ちょっと小腹が空いた時に、つまみぐい程度で確かな満足、それでいてワンコインで購入できるアレだ。
 ペットボトルのお茶も一緒に「どうぞ」と差し出されて、その意味を理解した途端、私は悟った。

 このひとは……神様か……。



・・・



 正式には神様ではなかった。キリタニと名乗ったその人は、黒いコートに身を包んだサラリーマン風のお兄さん。整った顔立ちの、なかなか素敵なイケメンさんだった。
 助けてくれたお礼がしたいと申し出たけど、彼は頑なに拒否の態度を取る。これは、あまり関わりたくないという意思表示かもしれない。確かに、空腹で道端に倒れているような奴を助けたからって、彼に何かメリットがある訳でもないし、そんな変な奴と関わりたくないと思われても仕方ない。
 少し残念だけど、私は大人しく引き下がった。彼が少し気まずそうな態度を見せたので、明るい(でもきっと無表情)態度で接すれば、安心したように表情を和らげた。

 見ず知らずの人間を見捨てたりせず、ちゃんと助けてあげられる人。この人から受けたご恩と優しさだけは一生忘れないようにしよう。そう胸に刻み込んだ。



・・・



 そんなキリタニさんと私は何かの縁で繋がっていたのかもしれない。まさか同じ会社の人だったなんて思っていなかった。それは相手も同じだったようで、すごく驚いていて。でも雰囲気はとても柔らかい。昨日の、どこか拒絶に近かった態度は今日は微塵も感じなかった。ちょっと嬉しくなる。あまつさえ、夕飯に誘ってくれた。
 お礼じゃなくて一緒にご飯、という理由付けをしてくれたのも、何だか嬉しい。
 特別に行きつけのお店でもご紹介しようかな。そんな浮かれ気分で課に向かって歩いていた私に、同じマーケの女の子達が群がってくる。



「ミズキチちゃんおはよー」

「ねえ、今桐谷さんと一緒にいたでしょ。何の話してたの?」

「えっと。キリタニさんに昨日、ちょっとお世話になりまして。そのお礼を言ってました」

「お世話って?」

「腹ペコで死んでたらご飯を恵んでくれました」

「またご飯!?」



 そこで一斉に笑いが起こる。



「さすがのミズキチちゃんだわ」

「でもすごいね?あの桐谷さんが助けてくれるなんて」

「凄いんですか?」

「そりゃ、営業部の次期エースって言われてるような人だよ。ホープだよ。あれ?ミズキチちゃん、桐谷さん知らないの?」

「キリタニさん……桐谷郁也さん?」

「そうその人!えー気付かないで喋ってたの?」

「はあ……気付きませんでした」



 桐谷郁也さん。同じ時期に入社した営業部の人。
 営業成績は常に優秀な凄腕さん。期待のホープって言われてる。
 名前だけは、知ってた。今まで喋ったり関わったりした事は無かったけれど。あの人がそうだったんだ。



「ミズキチちゃん、彼と話しててどんな感じだった?」

「どんな感じ……とは?」

「だって、ねえ。桐谷さんって、女嫌いで有名だし」

「オンナギライ……?」

「そうだよ。すごいイケメンなのに、女子にすごく態度悪いって話。愛想が無いっていうか」

「そう……なんですか」



 確かに昨日話した時は少し、素っ気無く感じた。けど今日はすごく気さくで話しやすかった。
 女嫌いって印象は全く感じなかった。
 日によって態度が変わる人なのかな……?



・・・



 気分屋さんなのかな?と思ったキリタニさんは、全然気分屋さんなんかじゃなかった。
 今日は彼と3回目のご飯の会。箸をつつきながら話す事と言えば、ほとんどが仕事の事。キリタニさんはすごく真面目な人で、仕事に対しては特に厳しい目を持っていた。自分なりの営業スタイルをきちんと確立していて、滅多に聞けない営業の極意を彼から教わるのは、なかなか新鮮で面白かった。彼も、マーケの情報を知りたかったようで、お互いに色々と情報を共有した。
 とはいえ、全てをおおっぴらに公言するわけにもいかない。そうなると、会話の限界は近づいてくる。気がつけば、休みの日の過ごし方や趣味などに話は移っていた。



「実は、株をやってて」



 株のお話は、基本的に人には話さない。お金が絡む話は、人によっては嫌悪感を抱かせてしまうから。それは株投資も同様。
 全く興味の無い人から見たら、株をやっている人なんて、ギャンブルという世界で生きている人と同じ印象だろうと思っていた。この温度差が嫌で、株をやっている事は人には話せなかった。
 なのにどうしてこの時、キリタニさんに株投資をしている事をポロッと喋ってしまったのか。彼の話術が巧みだった所為かもしれない。さすがは営業部のホープさんです。私は打ち明けてしまった。



「え?」



 案の定、彼は驚いて私を見返してきた。あああやっぱりそういう反応になりますよね。どうしよう、金にめがつい奴だと思われたかな。そもそも20の女子が株投資ってやっぱり痛い子に見られるかな。
 せっかく仲良くなれたと思ったのに。やっぱり言うんじゃなかった……、



「俺も株やってる」



 ……え。今度は私が驚く番。
 過去今まで、自分も株やってる、なんて返しを受けた事はない。どうやらそれは、キリタニさんも同じだったようで。



「え、まじで?まじで株やってる?」

「やって、ます」

「まじか。証券会社どこ?」

「株価部ドットコムです」

「お。同じ」

「ほんとですか」

「うん。口座は他にも開いてるけど」

「私もです。松打とイーパンクとハマックス」

「イーパいいよな。手数料安いから」

「そうなんです。でも、ドットコムに慣れちゃってるから全然ログインしてなくて」

「ああ、わかる。俺も」



 まさかの展開すぎて、さっきから胸の鼓動が収まらない。話せば話すほど、お互いの共通点がわかってくる。目的は違えど、株投資のバーチャルトレードから始めた事、今年から実際に手を出した事、意外と似ていた投資スタイル、とか。



「キリタニさんも株やってるなんて、意外でした」

「俺もびっくりした。周りに株やってる奴いなくてさ」

「私の周りにもいないです」

「じゃあ、これからは株の話も出来るな」



 整った顔がくしゃりと崩れて、とても嬉しそうに笑う。思わず見惚れてしまって恥ずかしくなる。
 私ほどではないけれど、キリタニさんもあまり表情に変化がない。クールと言えば聞こえはいいけれど、無愛想、とも見れ取れる。感情を表に出さない人だ。
 そんな人が、今。私の目の前で、すごく楽しそうに笑ってる。
 笑った顔は少しだけ幼くて、胸の奥が甘く疼く。……こんな風に、笑う人なんだ。
 私はきっと無表情のままだろうけど、本当はとてもとても楽しくて仕方ない。キリタニさんの話に食いついて、頷いて、相槌を打って。彼の言葉ひとつに、一喜一憂してる。さっきから心が、ふわふわと舞っているみたい。

 興奮でざわついていた胸の鼓動に、ひとつ、違う鼓動が混じる。
 甘やかな鼓動が波打つのを、私は確かに感じていた。

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